お目にかかったのは… v5-72
知らない街を目的地に向かって効率よく歩くのは難しい。
方向音痴の私にとっては猶更である。傍らに夫がいても最近は
あまり当てにならない。
しかし、今回の行先ははっきりしている。ホテル前の大通りを
直進すれば行き付く先が宍道湖である。
私たちの目的は宍道湖の畔に建つ島根県立美術館である。
そこで「日本夕陽百景」の一つと言われている夕陽を眺め
ようという算段だった。しかし、頭上の雲の動きが何とも
怪しげで、首尾よく太陽が顔を出してくれるか心配だった。
美術館に着くと早速、受付女性に夕陽の状況を尋ねると
「どうかしら?」と私たちに微笑んだ。
館内の広いエントランスロビーの西側は全てガラス張りに
なっている。既に数人がゆったりとした椅子に腰を下ろし
空を仰いでいた。窓外からは何やら意味不明の白い楕円形の
彫像物が見えた。その背後に宍道湖が広がり湖面の何処かに
陽が落ちていくようだ。遮るものは何もない。
まさに夕陽鑑賞にはもってこいの場所だった。
しかし、残念ながら頭上の雲が次第に分厚くなってきた。
雨の心配はなさそうだが、ただぼんやりと日暮れるのを
待つばかりではやりきれない。私たちは美術館を出て良く
整備された湖畔の遊歩道を暫く歩き、ベンチに腰を下ろした。
諦め悪く時々雲の動きに目をやっていると通りかかった
年配女性が声を掛けてきた。
「こんにちは!今日の夕陽は無理そうですね」などと言う。
地元の方で散歩途中とのことだった。
「こんな素敵な景色を眺めながら毎日散歩できるなんて
羨ましい」などと私たちも答えた。
彼女は更に私たちに「どちらからですか?」と聞くので東京
からだと答えると「残念ねぇ、明日は大丈夫そうなのに。
明日はどちらへ行かれるの?」などと聞く。簡単に説明すると
「私はもう旅行なんて無理ですよ。なんせ75才ですから」
と言った。
女性が自分の年齢を先走って口にするにはそれなりの返答を
期待している趣がある。きっと彼女は「お若いですねぇ」と
いう言葉を待っていたに違いない。
しかし、夫は「僕は昭和16年生まれ、82才ですよ」と言うと
彼女は驚いて私たちを眺めた。
彼女は自らが期待していた言葉を逆に言う羽目になった
ようだ。「都会の人は若く見られるから…」などと言った。
その後、彼女は自分の兄が昭和15年生まれで脳梗塞になったが
軽症で今は何とか普通に生活しているなどと身内の話を続けた。
私たちも翌日、娘夫婦と合流して娘婿の運転する車で観光
すると話した。すると彼女は「此方の高速道路は無料区間が
多くていいですよ」などと付け加えて去っていった。
マスクをした女性の顔立ちは良く分からなかったが、目じりの
深い皴はそれなりの年齢を現わしていた。
爽やかな空気が漲る世界でマスクなんてもったいないとマスク
なしの私は思ったが、時にはこうして雑菌いっぱいの世界から
くる人々との会話を楽しむこともある。
彼女にはマスクは必需品なのかもしれない。
遂に宍道湖畔に夜のとばりが下りてきた。
湖畔に沈む夕陽との出会いはお預けとなった。何事も
思うようにはいかないらしい。代わりにお目にかかったのが
地元の見知らぬ高齢女性であった。
これも旅情と呼んでいいのかも知れない。
2024年5月
(photo by y.y:宍道湖畔にて)