走れ!かっちゃん!    v5-68

 長々と受話器を握っている夫の様子が気になった。
またパソコンの調子が悪いのだろうか。そっと彼の会話に
聞き耳を立てた。どうやらお金の話になっているみたいだ。
彼は程なく電話を中断すると私に言った。
「お金4万ほどある?」と。「あるけど何に使うの?」
という私に「パソコンのウイルス駆除の費用だ」と言う。
電話の相手は、お金はコンビニで電子マネーを購入して
きて欲しいと言っているらしい。

夫はリモートサポートをしているマイクロソフト社を名乗る
女性の言葉を信じているようだ。彼はこのままだとパソコンで
保存した資料が全て消滅してしまうと言われて平静を失って
いる。いつもの冷静沈着な夫は何処にいってしまったのだろう。
夫は言われるままにパソコンとスマホを繋いだまま家を出た。
コンビニで電子マネーを手に入れるためである。
不審がる私の言葉など一向に耳に入らない様子だ。



夫が出かけた後、私は即座に自分のパソコンに検索をかけた。
検索用語は「パソコンウイルス駆除・詐欺」である。
直ぐにヒットした。私は急いで画面の文字を追い、
「…最終的には電子マネーでお金を要求してくる…」の所まで
読んでもう上着をつかんで外に飛び出していた。ところが階段を
降りる際、つっかけを履いているのに気付き、再び家に戻って
走りやすい靴に履き替えた。

それから走った。パクパクする心臓を抱え、転ばないように
気をつけながら。狭い歩道を歩く人々が邪魔で何回か車道に
出て走った。道行く人たちはそんな私を見て「何をそんなに急
いでいるのだろう?」と不審に思ったに違いない。歩いて
7・8分のコンビニがこの時ほど遠くに感じたことはなかった。

夫はコンビニの店内にいた。
彼はカードらしきもの数枚を手にしてまさにレジに並ぼうと
していた。私は夫を捉まえ声を押し殺し、しかし強い口調で
言った。「買っては駄目!」と。
夫は私の剣幕に驚き、素直に私に従って帰宅した。そして私が
見つけたウエーブサイトの前に座り素早く記事に目を走らせた。
記事には夫が遭遇した手口と全く同じ画面が載っていた。夫が
これからやることはただ一つパソコンの「強制終了」である。



夫は強引にスマホを切り、パソコンも思い切って強制終了した。
そして再び恐々と電源を入れてみた。いつもの画面が現れた時、
私たちはほっとした。それでも夫は信じがたい様子で各種資料
の保存状態、住所録なども確認したが無事だった。しかし、
夫の顔は冴えない。問題は解決したはずなのに未だ悪夢の中に
いるような表情をしている。こんな夫を見るのは初めてだ。

それから4日経った。
夫のパソコンに不審な英文メールが届いた。先日のサポートに
関する何らかの金銭請求ではないかと夫は案じた。しかし、よく
読むとそうではないらしい。でも読み間違えては大変と早速
ChatGPTの力を借りた。

差出人はIMFのフランス事務所となっている。
内容は“スキャム被害者”への補償金を受け取れる一員として
あなたはリストアップされた云々…”とある。この文面は事実と
大いに矛盾していた。
第一、夫はスキャム被害にはあっていない。それなのに保障
とは何?私のコンビニまでのダッシュ代?夫に大切な時間を
浪費させたお詫び代?さらにリストアップしたと言いながら
夫の氏名を知らない。

一目でこれは“怪しいメール”だと分かった。さらにChatGPTも
不審な文章だと言ってきた。勿論、我々はこのメールを完全無視
することにしたが、夫は自分のメールアドレスが悪用されない
かと気になりだした。



そこで、消費者センターに相談してみることにした。
相談を受けた女性は、私から今までのいきさつとIMFと名乗る
手紙の内容を聞くとまず初めにこう言った。
「奥様、大変素晴らしい対応をされました!私どもは、いつも
奥様と同じ言葉を、この種の相談者に言っています!」と。
この誉め言葉に私は内心ほくそ笑んだ。

今後予想されるこの種のメールや電話(スマホ)対応について、
彼女は夫に懇切丁寧なアドヴァイスをしたようだ。ようやく夫は
平常心を取り戻したように見えた。数時間後、彼はレポート用紙
に今後の対処方法などを記述して私に見せてくれた。勿論、これは
私にとっても必要な記録であった。

便利な機器には思わぬ危険が潜んでいるようだ。
その機器も年々進化を続け、更に詐欺集団の手口もますます
巧妙になっている。今後も文明の利器の恩恵に浴したいなら、
我々も日々減退する知能を励まし、「もう年だから」などと口に
してはいけないようだ。

            2024年2月
 
 


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