名前に引かれて v5-66
「牛に引かれて善光寺参り」という故事がある。
私たちは「山川」という温泉宿の名前に引かれて山形県
米沢市にある小野川温泉まで行ってきた。旅行会社の
観光案内でよく目にする宿である。
予約はwebで済ませたが、出発前日、送迎バスの確認
には電話を使った。
受話器の向こうから宿のスタッフらしき明るい男性の
声が聞こえてきた。「はい、ヤマカワでございます」と。
これを聞いた瞬間、私は飛び上がった。宿の名前が
「山川」なのだから驚くにはあたらないのに。
次に彼が私に言ったのは「確認します。お客さんのお名前は?」
である。そこでやや控えめに何故かドキドキしながら私は
言った。「山川です」と。対応している彼は事務的に淡々と
応対している様子だった。
面白いやり取りだとウキウキしているのは私だけだった
かもしれなかった。
宿にチェックインした当日だった。
夫は早速、スタッフをつかまえ気になっていた宿の名前の
由来を聞いてみた。何と創業者の名前は「山口」だった。
「山川」姓とは何のゆかりもない人である。もしかしたら
我々のファミリーネームとどこか遠くで繋がっているかも…
などと儚い望みを抱いていたが、我々の期待は宿泊初日に
吹っ飛んでしまった。
ともあれ折角来たのだから「山川」旅館の滞在を楽しむこと
にした。創業100年の宿と言えば大正時代末期の頃である。
館内には歴史を感じさせる事物が大切に保持されていた。
例えば廊下に飾った「古い宿の看板」、「蔵を模した美術館風
の部屋」「レストランの広間に置かれた数々の大型漆器類」など。
郷愁を誘われたのは私の年齢のせいである。
室内は今風に改装されてはいたが、私たちのベッド付き和室
には閉口した。何しろベッドが低すぎて寝起きするたびに
腹筋運動を強いられ悲鳴をあげた。
温泉は源泉かけ流し、さらに美人の湯で名高いことを知り、
朝晩せっせと湯につかった。
滅多に体験できない飲泉も美味しくないのに入浴する度に
口にした。さらにいくつか足湯も試し、青空に彩を添える
鈴なりの柿の木を見つけては歓声をあげた。
最上川の上流に位置する静かな温泉町だった。観光客もまばら
だ。温泉宿「山川」の名前を目にしなければ決して訪れな
かった土地である。たまにはこんな旅もいいかもしれない。
それにしても、あの4階建てビルの壁面に赤く記された「山川」
の文字が色あせ、消え入りそうなのが気になってならなかった。
このまま朽ちることがないように。
「山川」姓を名乗る物好きな旅行客がまだ他にもいるかも
しれないから。
2023年12月
(photo by y.y:小野川温泉にて)