賃貸マンション v5-57
ジムのお仲間であるKさんは、おしゃべり大好き、しかも大声
の持ち主とあって私には苦手とする女性である。
その彼女が今年に入ってからすっかりジムに姿を見せなくなった。
これは私にとって有難い兆候である。しかし、余り姿を見せない
と逆に心配になるから勝手なものである。
そのKさんと先日、街中でばったり顔を合わせた。
彼女はびっくりした顔を向け、いつものように大きな声で
「実は賃貸マンションに引っ越したの」と言った。咄嗟に
「一戸建てのお宅は管理が大変ですものね」と言うと、彼女は
「そうなの!凄く楽になったわよ」と続けた。
「お住まいはジムに通える距離なの?」と尋ねると「便利なの、
バス一本でこられるから」などと言う。
「ではジムでまたお会いできますね」などと心にもない事を
言ってしまったが、その答えをしかと聞く前に別れてしまった。
何しろ彼女の背後に立っている細身の旦那様の様子が辛そうで
見ているのに耐えられなかったから。確か彼女の夫はもうすぐ
90才になるとか以前言っていた。帰り際、彼女は
「皆さんによろしく伝えてね」などと言った。皆さんとはジムで
顔を合わせる仲間たちのことである。すると彼女は当分ジムは
お休み、あるいは止めてしまったということだろうか。
彼女の言葉を知らせるジムの仲間は私にはほんの数人である。
その内の一人に浴室で顔を合わせたので、早速Kさんの言葉を伝えた。
すると彼女も最近聞いたばかりだと言って「Kさん、老人ホームへ
はいられたみたいよ」などと言う。「え?!老人ホームなの?」と
思わず声をあげてしまった。
「生活がすごく楽になった」というKさんの言葉に少し違和感
を覚えていたがそれを聞いて納得した。
しかし、何故、Kさんは私に「老人ホーム」とか「ケア付き…」
などと補足しなかったのだろう。自尊心?単なる見栄?もしか
したら彼女は言葉に対して無神経、無頓着なのかもしれない。
これも加齢から来る呆け症状の一種だろうか。
だが、「老人ホーム」とか「賃貸マンション」とか、呼称に
こだわっているのはまだ「老人ホーム」の世話にはなりたくない
と思っている人間だけかもしれない。Kさんはこの新しい
住まいで、きっと楽しく暮らしているに違いない。
いつものように大声でおしゃべりを楽しみながら。
2023年4月
(photo by y.y: 新宿御苑にて)