自然の摂理       v5-51

 年老いた両親のもとに子供たち全員(3人)がやってきた。
他人が聞いたら驚くに違いない。
きっと「実家に何かあったの?」と尋ねることだろう。
確かに何か不幸な出来事が発生しない限り、子供たち全員が
実家に集まることなどありえない。

子供たちが訪問する1週間ほど前、夫は長年、深い交流の
あった友人を亡くした。突然の別れであった。
彼らの訪問は、傷心の中で意気消沈する父親を彼らなりに
慰めようという気遣いに違いなかった。

彼らは父親が好きなお酒を携えてやってきた。
当の父親は思わぬ子供たちの訪問に一気に顔がほころんだ。
その日は昔話で盛り上がり、夫は古い記憶を必死に手繰り
寄せては話の輪に入った。お酒の力もあってか夫はいつも
より雄弁になった。その夜、夫はすっかり上機嫌になって
眠りについた。今までの睡眠不足も一気に吹っ飛んだ感じだ。



子供たちが皆、独立して二人だけの所帯になって久しい。
そんな生活にもすっかり慣れてしまったが、慣れないのは
増え続ける友人、知人たちとの永久の別れである。
悲しみから立ち直るエネルギーも年々減少気味だ。夫に
とって子供たちとの談笑が何よりもいい発奮材料となった
はずである。

最近読んだ本の中で、作家・重藤芳子氏が言っていた
言葉が気になった。
「…老人というものは年を重ねるにつれて、生きていく
ために過分な悲しみを背負わなくなる。そして他者への
感情移入にも鈍感になりひたすら生を保つことのみ
専念する…」と。

老境に入って久しい私には納得のいく見解である。
周りを見渡せばそんな高齢者が沢山いる。これは高齢者
への天からの授かりもの、優しい自然の摂理かもしれない。
有難いことである。私にもいつかそんな時がやってくる
のかもしれない。



しかし、可能ならそんな日はずっとあとでいいと強がり
を言ってみたくなった。自然の摂理に背を向けて我儘を
言い、憎まれ口をたたき、悲しみや喜びに大いに涙を
流しながら現世にはびこるのも悪くはない。
もっとも、身心ともに疲労困憊した時には大人しく
素直な老人になることにしよう。なんたって助けが必要
なんだから。
しかし、私の場合はお酒の手土産などはいらない。
願わくば温泉行きが最高、などと言ったら…
それこそ彼らは顔を見せてはくれないだろう。

               10月31日
        
(photo by y.y: 佐久市 貞祥寺にて)
    
          
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