更新日:2021/08/02

  クマ鈴         v5-35

 コロナ禍である。しかも緊急事態宣言まで出ている。
もう少し世間が落ち着いてから旅に出ようと思っていたが、
なかなか落ち着く気配もない。その内、旅に出る気力もフット
ワークも失せてしまうに違いない。そこで思い切って旅に出る
ことにした。行先は八幡平である。

ホテルにチェックインした最初の夜だった。
けたたましい物音に飛び起きた。何と夫が”ワァ―!“と奇声を
上げ、振り上げた腕でナイトテーブル上にあった電話機と私の
腕時計を激しく床に落とした。正気にかえった夫は慌てて私に
「ゴメン!」と言う。クマに出くわした夢を見たらしい。


         
(ツルアジサイ)

クマといえばチェックイン後、散策しようとホテルを出た私たち
にスタッフが大きなクマ鈴を貸してくれた。
隣接する広大な森の中にはいくつかの散策路が走り、物珍しい
「ツルアジサイ」がまだ咲き残っていた。こんな処にもクマが
やってくるのかと驚きながら懸命に鈴を鳴らした。森閑とした
空気を引き裂くように甲高く澄んだ音色は木々や足元の草花を
揺さぶった。そんな鈴の音が夫の脳裏に残っていたにちがいない。

八幡平周辺をハイキングする時は、持参のクマ鈴とホテルから
借りた大きな鈴もザックの脇につけた。
歩くたびにキーン、キーン、ガラン、ガランと賑やかなハーモニー
を奏でる。しかし、驚いたことにすれ違うハイカーたちは殆ど
クマ鈴を付けていなかった。


        
(ハチマンタイアザミ)

ハイキングを終えてホテルへ戻るバスの中だった。
乗客の一人が「ワァ!クマがいる!」と叫んだ。その声にバスも
速度を落とした。乗客は皆、一斉に立ち上がり窓の外を注視した
が、クマの姿を見た人はごく少数で、反対席にいた私は貴重な
一瞬を逃してしまった。それにしても車が行き交う舗装された
自動車道に顔を出すとはクマも世慣れたものである。

ホテルに戻り借りたクマ鈴と同じ物を購入することにした。
売店の棚には「ガイド推奨のクマ鈴」などと宣伝文が書き添えら
れている。私は自分用と山好きな孫息子用にさらに1個買い
求めた。今後、この鈴の出番はどれほどあるかわからない。
むしろクマ鈴は、思わぬ用途で役立つ時が来るかもしれない。
そう、寝たきりになった実母が使ったように。それはそれで
また楽しみである。

            2021年8月
  
        (photo by y.y:八幡平にて)



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