バスタオルのカーテン    v5-34
 
 5月の下旬、久しぶりに上高地へ行った。
記憶をたどると長男が中学3年生の夏休みの時に訪れている。
何と38年も昔のことだ。それ以来、一度も訪れなかったか
どうか、どうもはっきり思い出せない。

何しろ当時の記憶があまりにも強烈すぎた。
あの日は夫と長男と私の3人のパーティが北アルプスの通称
「表銀座ルート」を順調に踏破しての最終日だった。
槍ヶ岳頂上近くの肩の小屋から一気に上高地のバスターミナル
まで下山する行程だった。悪いことに前夜の大雨で登山道が
あちこち遮断され、遠回りを余儀なくされ予定以上に時間が
かかった。恐らく5,6時間は要したはずだ。



雨も上がり、下山道も平坦になり明神池近くまで来た時、
私たちは皆、汗と雨で随分と酷い恰好だった。そこで
着替えをしようと目に付いたちょっと小奇麗な山小屋風宿の
入り口に立った。そこで少しの間、部屋を借りたいと申し出たら
あっさり断られてしまった。

仕方なくそのまま上高地バスターミナルまで歩いた。そこで目に
したのは、まるで野戦場のような光景だった。多くの山男たちが
広々としたバスターミナルを占拠して、誰憚ることなくもろ肌
脱いで着替えをしていた。夫と長男も早速、彼らの仲間入りで
あった。

困ったのは私である。トイレを見ると長蛇の列である。
困惑している私に夫は提案した。
「お母さん、僕とカズキがバスタオルを広げてカーテンを作るから」
と言う。素晴らしいアイデアであった。私は夫と息子が広げる
優しいカーテンの中で素早く着替えを済ませた。
身も心も躍るような不思議な瞬間だった。



そんな上高地バスセンターは今はすっかり影を潜めコンクリートで
固められた立派な駐車場になっていた。
広場の一角にはビジターセンターが入るビルが建ち、清潔で広々
とした有料トイレもあった。
どこかスイスの山旅を思い出させるような雰囲気であった。

そこから明神池まで足をのばしてみた。
あの時、私たちを門前払いした宿を探してみたが目新しい宿泊
施設が目につくばかりだった。名前を忘れてしまったせいか
恐らくこの辺りではなかろうか、などと見当をつけることしか
できなかった。しかし、上高地の自然は昔と変わらなかった。
そして驚いたことに思い出は未だに健在、鮮明だった。あの甘くて
優しい瞬間、「バスタオルのカーテン」のお陰である。

              2021年6月
          
(photo by k.y:上高地にて)

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