電子タバコの女    v5-04 (イタリア編最終@1)

8日間の海外旅行である。参加者の殆どはそれなりのスーツ
ケースを引きずって空港に集合した。その中に一人だけ身軽な
女性がいた。彼女の荷物は機内持ち込み可能サイズの小さな
キャリーケースだけだった。年のころは70代後半、もしか
したら80代かもしれない。
一人参加で飾り気のない風貌とゆっくり脚を運ぶさまは
老人臭さを忍ばせるが、何処か自立していて近寄りがたい。

観光バスから降りると、いつも彼女は土産品店の軒先、少し
離れたベンチなどで電子タバコを吸っていた。
そんな彼女と食事時、同じテーブルになった。その時、
私たちの前に大きなニジマスの姿焼きが置かれていた。
それを見て彼女は「魚はきれいに食べられないから苦手
なのよ」と周りの人に言った。



隣にいた夫は早速彼女に魚の食べ方を伝授した。彼女は
熱心に夫の手ほどきを受けて魚と向き合った。
そして満腹だと言いながらもついに完食した。彼女は
骨だけ残った皿を見て大げさに歓声をあげた。

ふとしたことからネパールの話になった。彼女は昔、
バックパックを背負い1か月間、友人とネパールを旅した
ことがあるという。その時、エヴェレストの登山基地である
ベースキャンプ(5364m)までいったと言うから山歩きと
しては半端ではない。

その彼女、最近、埼京線でネパール人と間違えられたそうだ。
車内で斜め前に腰かけた女性が彼女を見てにっこり微笑んで
言ったそうだ。「〇〇▽△××〇〇××…」と。
その言葉を素早く理解した彼女はすかさずネパール語で
「△△×××〇〇××…」と応じた。かのネパール女性は
嬉しそうに微笑んだそうだ。それだけである。



しかし、そのネパール女性は自分のことをネパール人だと
勘違いしたまま電車を降りたに違いないと彼女は微笑む。最も、
彼女が日本語を話さなかったら私も彼女をネパール人と思った
かもしれない。

ホテルのロビーで彼女は熱心に文庫本を読んでいた。私を見て
「もう1冊持って来ればよかった。もう終わりそう」と言う。
なんの本かと覗いてみたらデヴュイッド・ヒューソンの
「ヴェネツィアの悪魔」(上)であった。
「サスペンス物で面白いわよ」と言う。初めて知る作家だった。
試に帰国してからその本を読んでみたが、期待していたほど
ではなかった。本の趣向は人様々だとつくづく思った。

湖に映る逆さマッターホルンを見るために小さな湖のほとりを
歩いた。その時、彼女は足を滑らせて小さく転んだ。
近くにいた数人が「大丈夫?」と言って彼女に声をかけたが
事なきを得たようだ。しかし翌朝、彼女は私に足の甲を見せて
「湿布薬を貼っているの」と言う。昨日、転んだ後遺症らしい。
でも心配ないと言い皆の後ろについて旅の行程を全てこなした。

帰国の機内である。トイレの前で彼女と一緒になった。すると
彼女は「前の席の人、椅子を思いきり後ろに倒すものだから…
膝にあたって痛くて…。散々よ!」といまいましげに言った。

成田空港に着いた。荷物引き取りのない彼女は早々に空港を後に
したにちがいないと思った。ところが彼女は空港の喫煙室に居た。
長い禁煙の後の一服を無心に楽しんでいる様子だった。

              2019年8月

        
( photo by y.y:北イタリアにて)


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